非介入という前提に至るまで
――過去を確定させ、未来へ向かうための思考の記録
この考え方は、最初から意図して選んだものではない。
「こう考えよう」と決めたわけでも、「強くなろう」と思ったわけでもない。
むしろ、日々のやり取りの中で、
なぜか疲れる自分に、何度も出会ったことが始まりだった。
誰かと話したあと。
仕事で相談を受けたあと。
あるいは、親しい人との何気ない会話のあと。
言葉は尽くしたはずなのに、どこか落ち着かない。
伝えたはずなのに、引っかかりが残る。
理解されたのか、されていないのかが気になり、
「もう一言足した方がよかったのではないか」と考え始める。
そのとき頭の中で起きていたのは、
相手の反応を想像し、相手の理解を推測し、
相手の内面に踏み込もうとする思考だった。
一見すると誠実で、丁寧で、配慮のある態度に見える。
けれど同時に、そこには強い消耗があった。

理解されたい。
誤解されたくない。
きちんと受け取ってほしい。
そう願えば願うほど、
自分の意識は相手の課題へと伸びていく。
だが、そこでふと立ち止まる瞬間があった。
それは、本当に自分の領域なのだろうか。
相手がどう感じるか。
どう理解するか。
どう選択するか。
それらは、いくら考えても、
自分が直接コントロールできるものではない。
それにもかかわらず、
そこにエネルギーを注ぎ続けている自分がいる。
その構造に気づいたとき、
問題は相手ではなく、
介入しようとする自分の姿勢にあるのではないかと思うようになった。
他者の感情はアンコントロールだ。
他者の理解も、評価も、選択もアンコントロールだ。
これは冷たい現実ではなく、
単なる事実に近い。
アンコントロールなものを、
「どうにかしよう」とした瞬間に、
完全解決は原理的に不可能になる。
にもかかわらず、
人は、相手の課題に踏み込み、
踏み込んだ結果として迷い、揺れ、疲れる。
では、どうすればいいのか。
ここで、思考の向きが変わった。
「どうすれば伝わるか」ではなく、
「どこまでが自分の課題なのか」を先に確定させる。
このとき、
非介入(ノンインターフェア)という考え方は、
目指すべき結論としてではなく、
思考の前提条件として立ち上がった。
自分自身の行動原理として、この思考を「ノンインターフェア」と呼んでいる。
理解される必要はない。
受け入れられる必要もない。
なぜなら、それは相手の課題であり、
自分にはアンコントロールだからだ。
これは諦めではない。
突き放しでもない。
境界を引く、という整理だった。
この前提に立ったとき、
次に自然と視界に入ってきたのが「過去」だった。
過去もまた、
すでに起きてしまった以上、
完全にアンコントロールな領域。
過去は、
瞬間の連鎖によって、
事実として積み重ねられ確定していく。
それにもかかわらず、
人は過去を何度も振り返り、
解釈し、意味づけし、
「本当は別の可能性があったのではないか」と考え続ける。
だが、その行為は、
過去に介入しようとする試みでもある。
起きた事実を変えられない以上、
そこに残るのは解釈だけだ。
そして解釈には、必ず主観が混ざる。
どれだけ経験や知識を積んでも、
「こうすべきだった」という判断は、
最終的には主観から逃れることはできない。
主観が増えれば、変数が増える。
変数が増えれば、迷いが増える。
その構造は、
他者への介入とまったく同じだった。
そこで、もう一つの前提が固まった。
過去は、事実として確定させる。
評価もしない。解釈もしない。正誤もつけない。
良かった、悪かった、正しかった、間違っていた。
そうしたラベルを貼る前に、
起きたことを起きたこと、として扱う。
過去を確定させる、というのは、
忘れることでも、否定することでもない。
解釈の余地を閉じるという行為だ。
そうすると、不思議なことが起きる。
後悔や罪悪感、期待や「もしも」が、
自然と力を失っていく。
それらはすべて、
過去にまだ介入できると思っているときにだけ、
強く作用する感情だからだ。
人はよく、「過去に縛られる」という意味で、「過去の呪縛」をカジュアルに使いたがる。
冷静に考えると、かなり強い表現だ。
呪い、縛られる。
過去そのものが人を縛るわけではない。
人を縛るのは、過去に対して繰り返される解釈だ。
「あのとき、こうしていれば」
「本当は、こうしたかったのではないか」
「なぜ、ああなったのか」
そうした問いを、何度も何度も自分に投げ続けることで、
人は自分自身に呪いをかけていく。
過去を確定させる、というのは、
その呪いを解く行為だと、僕は思っている。
起きたことを起きたこととして扱い、
それ以上でも以下でもないものとして手放す。
そうしなければ、
人は未来に向かうたびに、
過去の鎖を引きずることになる。
過去を確定させ、
アンコントロールを確定させる。
この二つが揃ったとき、
思考は驚くほど静かになる。
感情がなくなるわけではない。
ただ、揺れが起きにくくなる。
それは強くなったからでも、
悟ったからでもない。
介入を許していない領域が明確になっただけだ。
自分も他者も、
侵入しないし、侵入させない。
その構造の中で、
ようやく問いは一つに集約される。
「じゃあ、これからどうする?」
この考え方は、
正しさを主張するためのものではない。
誰かに共有される必要もない。
ただ、僕にとっては、
思考が静かになり、
判断が速くなり、
未来に向かうエネルギーを保てるという意味で、
機能している運用ルールだ。
だから、ここに記録として置いておく。
どう受け取るかは、
読む人の領域だ。
行政書士阿部隆昭



