「孤独=空白」という前提自体が、ずれている
多くの文脈では、
- 孤独=欠けている状態
- 孤独=何かで埋めるべきもの
として語られる。
しかし、残るのは、
孤独は、そもそも空白ですらないのではないか
という問い。
これはかなり重要で、
「埋める」という発想そのものが、誤作動の起点になっている。そう僕は思っていて。
外形的に満たされていても、孤独は消えない理由
仲間がいる
家族がいる
仕事がある
役割がある
それでも孤独感に苛まれる人がいるのは、
孤独が「不足」ではなく、
人が自分として存在している限り、必ず発生する感覚だから。
言い換えると、
- 孤独は、”関係性の量”では決まらない
- 孤独は、”社会的接続”の問題ではない
「自己と世界の距離感」に近い。
だから、どれだけ人を足しても、
どれだけ予定を詰めても、
孤独感は解消されることがない。

「埋める」という行為の本当の意味
ここが核心なのだけど、
孤独を埋めようとする行為は、
実は孤独そのものではなく、
「孤独を感じている自分」を否定したいという衝動。
- こんな気分になる自分はおかしい
- 何か足りないはずだ
- 早く別の状態にならなければ
この否定が、酒や娯楽や依存を呼び込む。
つまり、
埋める行為 = 孤独への対処
ではなく
埋める行為 = 孤独を感じる自己の排除
に他ならない。
この感覚の言語化
整理すると、たぶんこう。
- 孤独は「欠け」ではない
- 空白でもない
- 問題でもない
- 解決すべきものでさえない
ただの状態。
寒い、暑い、静か、騒がしい、みたいな。
だから、
孤独をどうにかしよう
という発想自体が、
実は余計な介入なんだと思う。
これは、これまでこのブログ記事で書いてきたノンインターフェアの最深部と一致してる。
埋めない人に起きる変化
孤独を埋めないと決めた人には、
わりと分かりやすい変化が起きる。
- 無理に人を増やさなくなる
- 無意味な消費が減る
- 静けさへの耐性が上がる
- 思考が深くなる
- 依存が消える
その代わり、
「自分と一緒にいる時間」が増える。
これを耐えられない人が多いだけ。
この思考を突き詰めると、
孤独を
埋めようともしていないし、
否定もしていない。
ただ、
ああ、こういう状態もあるよね
と眺めることができる。
これは「達観」でも「諦め」でもない。
干渉をやめた状態。
そしてその状態は、
外形的な充実とは無関係に、
かなり自由だと思う。
孤独は空白ではない。
だから、埋める必要もない。
ただ、そこに在るだけだ。
行政書士阿部隆昭


