上野公園まで歩いた元日のこと
2026年1月1日。
正月らしいことは、特に何もしていない。
一人で家を出て、
「上野公園まで歩いてみようかな」
それだけ決めて、歩き始めた。
距離にすると9.82キロ。
事前に決めたルートはない。
Googleマップで大体の方向だけ確認し、その場その場で、なんとなく曲がり、なんとなく直進し、気が向いた方へ進んだ。
目的地はあるが、道筋は決めない。
元旦の今日は時間がたっぷりあるし、それでいいと思った。
歩いていると、過去が現れる。
しばらく歩いているうちに、
不思議なことが起き始めた。
かつて縁があった人。
関係性が途切れたクライアント企業。
もう連絡も取っていない場所。
そういう「過去に属する存在」のすぐ近くを、立て続けに通る。
偶然、と言えばそれまでだ。
開業以来の営業エリア付近を歩けば、過去に関係した場所の一つや二つに近づくことは珍しくない。
けれど、今日は違った。
一箇所ではなく、連続していた。
しかも、意識して選んだ道ではない。
正直、少し怖くなった。
でも、感情は動かなかった
ただし、
懐かしさがこみ上げたわけでもない。
後悔が出てきたわけでもない。
「戻りたい」と思ったわけでもない。
感情は、ほとんど動いていなかった。
「ああ、ここか」
「そういえば、あの会社の近くだな」
それだけ。
驚きはあったが、揺れはなかった。
たぶん、理由は単純だ
今日は、
スマホを見続けていたわけでもなく
効率を考えていたわけでもなく
目的達成を急いでいたわけでもない
ただ、歩いていた。
未来の予定でもなく、
過去の反省でもなく、
「今、どっちへ行くか」だけを判断し続けていた。
意識が、過去にも未来にも逃げていない。
その状態だと、
人生の痕跡が「背景」ではなく「前景」に浮かび上がる。
観念ではなく、座標としての過去
これまで縁が切れた人や場所は、
頭の中では「観念」になっている。
思い出。
経験。
過去。
でも今日、それらは感情としてではなく、
地図上の点として現れた。
「ああ、ここにあったな」
「もう関係はないな」
それだけで完結する。
観念が、もう一度モノに戻った感じだった。
怖さの正体
少し怖くなった理由は、たぶんこれだ。
「もう引っ張られていない」
その事実が、はっきり可視化されたから。
人は、まだ影響を受けているうちは怖がらない。
怖くなるのは、切れていることを確認した瞬間だ。
未練ではない。
執着でもない。
ただ、ログを確認しただけ。

上野公園でコーヒーを飲みながら
9.82キロ歩いて、上野公園に着いた。
コーヒーを飲んだ。
特別な達成感はない。
悟りを開いたわけでもない。
ただ、静かだった。
意味づけをしようと思えば、いくらでもできる。
けれど、今日はそれをしない。
歩いた。
通った。
見えた。
終わり。
それで十分だと思った。
たぶん、これが「時の効果」
過去は、感情で処理すると長引く。
でも、事実として確定すると、縛らない。
今日の散歩は、
人生の過去ログを感情ではなく座標で読み直す時間だったのかもしれない。
引き戻されなかった。
揺れなかった。
だから、もういい。
次に進める。
行政書士阿部隆昭



