両親の実家に帰ると、戦死した親戚筋の写真が置いてあります。
実際に戦死した者の家族であればもちろん、遠縁の僕でさえ「あ〜、死んじゃったんだな」と当事を想い起す瞬間がある。
この時点で、私の中で「戦争」は風化していない。
「戦争」は風化していないけど、「戦争の悲惨さ」はどうか。
「戦争」も「戦争の悲惨さ」も、教科書で勉強した。
アタマでは知っている。
しかし、写真を見て、「戦争の悲惨さ」まで想いが辿り着けるかというと、戦時下で生きてきた人々とくらべれば相当に弱い。
実体験のない世代のアタマの中の引き出しには、
「むかし戦争があった」という知識と
「たくさんの人々がひどい亡くなり方をした」という知識。
これは持っている。
風化するということは、つまり「引き出し」を開ける機会がないということ。
だから僕たちは忘れてしまう。
アタマの引き出しを開けさせるような「トリガー」が必要なんだと思う。
年に一回ぐらい、山の手線車内のすべてが戦時下の写真で埋め尽くされるような、そんな日があってもいいと思う。
今日は、多くの人々が引き出しを開く日。
そうですよね。