<生活困窮>強制退去の日、娘を殺害 千葉地裁で12日判決
事の是非はどうあれ、お嬢さんの命が失わてしまったのは事実
誰かが悪いのだとしたら、悪者はだれ?
直接手をかけたお母さん、なのでしょうか?
役所としても現実的かつ一般的、適切な対応をしたのでしょうし、悪者なんて誰もいない?
単に、運命がわるさしただけ?
こういった問題を考えるときに気をつけなければいけないのは、いたづらに感情に流されてしまうこと。
こんな状況になるまで役所から放って置かれてかわいそう。誰か相談にのってあげればこんなことにならなかったのに。
世間的にはこういった意見が多いのでしょうか。
ちなみにですが。
私、大学のときからの友人が地方自治体の福祉課に長いこといまして。
大変さ、といったものは重々承知しています。
休みはないは、理不尽は相談はされるは、それはもう、事情を聴いていて本当にかわいそうになった。
あまりの大変さで、彼、うつ病になりました。
その上で、どうなんだろう、この事件。
私、こう思います。
このお母さん、圧倒的にかわいそうだ。
市社会福祉課は取材に「制度の説明を聞きに来ただけだったので、詳しい事情の聞き取りはしなかった」と説明した。立ち退きを求めた県住宅課も「被告の生活状況は把握していなかった」という。
ないよ、ここには相談を受けるべき立場に備わっていなければならないものが、ない。
ない。
愛がない。
説明に来たってことは、何かしら気になっているから来ているわけであって、福祉制度の研究をしている学者さん来たわけじゃないのは分かりますよね、きっと。
「ちょっとお話しおうかがいしましょうか?」
とか、
「最近、こういった方が増えてきましてね」
と、他人のことを話すようにして本人と重なる事情を聞き出したり。
結果どうなるか分かりませんよ、でも、もしもそういった対応であったならどうなんだろう。
説明を聴きには来ているんだけど、現実に手を降ろしているはいるんだけど、助けが欲しいと思って手を伸ばしているのは確かなわけであって。
視覚的には見えないその伸ばしている「助けの手」と握手できるかどうか。
手をグッと掴んで、引っ張りあげて上げられるかどうか。
伸ばしている助けの手は、見ようと思わないと、見えないんです。
見るためには、何が必要かというと、もうそれは、究極的には「愛」しかない。
そう、思いますよ。
その人にとっては、やっとの思いでその係の窓口に立ったのかもしれません。
たった一度のチャンスを見逃すことをせずに、支援の枠組みのなかに引っ張り込むことだって出来たはずです。
結果どうなろうとも、「機会の保障」といった意味に限れば、これは確実に出来た。
もしも、その機会に「愛」を受けることが出来れば、お母さんは別の道をたどり、お嬢さんももしかしたら。。。
ニュースになるのは、今回のような悲劇的な現実ばかりですが、見えないところでは確実に引っ張りあげてくれて、生活の再設計がうまくいっている家庭もあると思う、きっと。
もう一回いうけど、このお母さんは圧倒的にかわいそう。
機会がなかった。
大阪市では、生活困窮者自立支援法(平成27年4月施行)に基づき、生活にお困りごとを抱えた方の自立支援策の強化を図ることを目的として、相談支援窓口を各区に設置し、対象となる方の自立までを包括的・継続的に支援します。
本市では、生活保護に至る前の生活困窮者が困窮状態から早期に脱却することを支援するため、「生活困窮者自立支援法」に基づき、ご本人の状態に応じた包括的な相談支援等を実施するとともに、地域における自立・就労支援等の体制を構築する「北九州市生活困窮者自立支援事業」を実施します。