戸田の海で、なぜ「まあ、それでもいいか」と思えたのか
故あって、静岡県の戸田へ。
目的地は僕が選んだわけではなかった。
戸田漁港があって、鳥居があって、正面に富士山が見える。
スマホを見なくても、何も困らない場所だった。

通知は来ない。
誰からも呼ばれない。
「返さなきゃ」という思考が、そもそも立ち上がらない。
そこでふと気づいた。
ついこの前までの自分は、
ずいぶんと「応答する世界」に生きていたな、と。
誰かの言葉に応答し、
期待に応答し、
空気に応答し、
過去の自分の選択にまで応答していた。
でも、目の前の海は何も求めてこない。
富士山も、
鳥居も、
波の音も、
こちらの理解も評価も必要としていない。
ただ、そこにある。
その環境にしばらく身を置いていると、
思考の力が抜けていくのが分かった。
「こう考えなきゃ」
「意味づけしなきゃ」
「納得しなきゃ」
そういう“内側の声”が、
一つずつ消えていった。
代わりに浮かんできたのは、
とても素朴な感覚だった。
まあ、これもいいか。
人生がどうだったか。
これまでの選択が正しかったか。
これからどうなるべきか。
そういう問いが、急にどうでもよくなる。
予定調和の人生だったら安心なのかもしれない。
でも、もし人生が一つのドラマだとしたら、
筋書き通りの展開ほど退屈なものはない。
この場所にいると、
「セカンドチャンスがない」という設定さえ、
悲壮感を帯びない。
やり直せないからこそ、
いま立っているこの場所が、
そのまま物語の現在地になる。
それで十分じゃないか、と思えた。
過去をどう解釈するかでもなく、
未来をどう設計するかでもなく、
ただ、今ここに立っているという事実。
戸田の海は、
それ以上の説明を必要としていなかった。
そして、説明を求めない世界に身を置いたとき、
自分もまた、
何かを説明しようとするのをやめていた。
理解されなくてもいい。
受け入れられなくてもいい。
そう思えたのは、
強くなったからでも、割り切れたからでもない。
ただ、
介入してくるものが何もない場所にいたからだ。
その静けさの中で、
「まあ、それでもいいか」という感覚が、
自然に立ち上がった。
たぶん、この考えは、
戸田で生まれたわけじゃない。
ずっと自分の中にあったものが、
あの海と空の前で、
ようやく言葉になる許可をもらっただけなんだと思う。
だから今日は、
ただ、この境界に立っている。
「ここは、何も奪わず、何も与えず、ただ在る場所だった。」
翌朝、かにやにて「大漁海鮮丼」を。



