年末の温泉で、思っていた以上に疲れた話
今年は、人生で一番温泉に行った。
その締めくくりとして、立ち寄った温泉があった。
結果から言うと、
驚愕の空間だった。
下駄箱待ちという体験も、正直はじめてだった。
先客グループが「下駄箱空くまで待ってる」と仲間に伝えていたのを聞いたので、どういうこと?、と思ったのですが。下駄箱の鍵が全くない状況で、入り口から先に進めない人たちが列になっているわけです。
実は、この段階で嫌な感覚、この場所は避けたほうがよさそうというアラートが鳴りました。が、同行者がいたのでそのまま通過。
さらに脱衣所は狭く、そして清潔感が欠けている。ロッカーは縦に細長く、
浴場も明らかにキャパオーバー。夏休みの土日の市民プールと同じ。
「混んでいる」というより、
この空間が本来受け入れてはいけない人数を、
前提として受け入れている、そんな印象だった。
人の隙間を縫うように身体を忍ばせての入浴なので、精神はまったく休まらない。
人の動線、視線、音、すべてが近すぎで、介入を許さざるを得ない。
気づけば、
「どうやってここから気持ちを切り離すか」
そんなことを考えていた。

なぜ、ここまで消耗したのか
あとから自分で振り返ってみて、
単に「不快だった」以上の理由があったことに気づいた。
この場所には、はっきりした構造がある。
- サウナ好きの“聖地”という評価
- 常連化した地域の高齢者層
- 混雑を前提に成立している運営
- そして、静かに切り捨てられる一定数の来訪者
この構造の中では、
僕のような客は「いなくなっても問題ない存在」だ。
それ自体が悪いわけではない。
ただ、そういう場所だったというだけ。
問題は、
その構造が、接遇や空気感にも
そのまま反映されていることだった。
スタッフの態度も含めて、
「ここは、そういう人のための場所ではない」
というメッセージが、終始一貫していた。
口コミを探しに行った理由
実は、途中で口コミを見に行った。
不満を書きたいからではない。
自分の感覚がズレていないかを確認したかったからだ。
すると、同じような体験を書いている人が、
一定数、確かに存在していた。
一方で、
この場所を強く支持する声も圧倒的に多い。
そこで、すっと腑に落ちた。
ここは、
「万人にとって快適な場所」ではなく、
「特定の層にとって最適化された場所」なのだ。
そして、その設計思想は、
今後も変わらないだろう。
だから、もう行かない
評価もしない。
改善を期待もしない。
二度と行かない。
それだけ。
この判断に、怒りも恨みも必要ない。
ただ、世界線が違ったという事実だけが残る。
今日の出来事の位置づけ
今回の温泉体験は、
「嫌な思い出」ではなく、
もう戻らない場所を、確認しに行った出来事
だったのだと思う。
人生には、
「ここではなかった」と確かめるための体験もある。
それをちゃんと
「合わなかった」と感じられた自分は、
まだ感覚が死んでいない。
そう思うことにした。
おわりに
今年は、
自分の境界線について、何度も考えた一年だった。
どこまでが自分の領域で、
どこからが他人の領域なのか。
今回の温泉も、
その境界をもう一度はっきりさせてくれただけ。
この文章を書いて、
この出来事はここで終わり。
あとは、
静かに年末を過ごそうと思う。
行政書士阿部隆昭


