世間の注目が高いことの裏返しなのでしょうか?
遺言書がらみの相続トラブルがメディアに取り上げられる機会が多くなっているような気がします。
「家政婦に全遺産」遺言有効 3000万相当持ち去った実娘2人敗訴
「家政婦に全遺産」遺言有効 3000万相当持ち去った実娘2人敗訴:イザ!
平成23年に死去し「遺産は全て家政婦に渡す」としていた資産家女性=当時(97)=の遺言に反し、実娘2人が遺産を不当に持ち去ったとして、家政婦の女性(68)が遺産の返還を実娘側に求めた訴訟の判決が東京地裁であった。
実娘側は「遺言は母親をだまして作成させたもので無効だ」などと主張したが、原克也裁判長は「介護せず資産のみに執着する実娘2人と違い、資産家女性に50年以上、献身的に仕えてきた。遺産で報おうとした心情は自然だ」と判断。家政婦の女性を全面勝訴とし、実娘側に宝石類や約3千万円など全遺産の返還を命じた。(小野田雄一)
家政婦
↓ 遺産を返せ!
二人の娘
なぜ、家政婦が、娘に対して遺産を返せ!なのか?
普通は、娘たちが家政婦に遺産を返せ!っていうケースが多いですよね。
遠方に住んでいる娘たちの代わりにお世話をしていたのは家政婦さん。
その家政婦さんが悪い人で、資産をごっそり抜かれていた。
テレビドラマでもよくある話ですよね。
でも、今回は逆です。
時系列にすると理解しやすいです。
昭和36年家政婦 ※月給6万円
昭和59年ご主人死亡 ※奥さんが10億相続
※以後、無給で家政婦業
平成14年 これが最後の援助として娘に3000万円贈与
平成15年遺言 「全ての遺産は家政婦に渡す」
平成23年奥さん(後述、吉川さん)死亡
同日 娘たちが遺産の3000万円を口座から引出し
その後 追い出された家政婦が帰郷 着の身着のままで手持ち現金5000円のみ
家政婦は実の娘たちにこう訴えています。
遺産を返せ!
「吉川さんには判断能力が十分あった。吉川さんは多額の援助を受けながら無心を続ける実娘2人に資産を奪われることを心配していた。遺言は適正だった」
それに対して娘たちは、家政婦に、
遺言は無効
「遺言は、女性が高齢で判断能力が低下していた吉川さんに実娘2人の嘘の悪評を伝え、不正に作成させた。実の娘を差し置いて家政婦に遺産を渡そうとするとは考えられない」
着服金6000万円を返せ!
「遺産が想像以上に少ない。女性が着服していたと考えるのが自然だ」
ようするにですね。
お父さんから10億相続されていたはずなのに、遺産が3000万円しか残されていなかったと。
しかも、全額を自分たち実の娘じゃなくて、家政婦さんに相続させる遺言もある。
こりゃ、オカシイ。
無理やり家政婦に遺言を作られせて、お金も相当使い込みされていたと。
判決はこうでした。
「使途不明金はカネ遣いの荒い実娘側に渡るなどしたと考えられる。女性による着服は認められず、推認すらできない」と断定。
「遺言作成当時は介護を期待できる実娘も移住してしまっていた。
その中で長年自分を支えてきてくれた唯一の存在である女性に感謝し、全資産を譲る心境になるのは自然だ」とし、遺言は適正なものだったとした。
私はそうではないので実情は分かりませんが、
人生の終盤戦になると、全く寄り付かない実の子どもよりも、毎日お世話をしてくれる人に情が移る
のはごく普通のことらしいです。
全4回の週末相続ノート(エンディングノート)作成講座なかで様々な話しをした際に、参加者の皆さんとお話ししたテーマでもあります。
大人になるまでさんざん世話をした。
それぞれ家庭をもって独立して暮らしているから今後援助の必要もない。
実家に寄り付こうともしない。
世話もしない、カネは取るだけ、でも血は繋がっているよね。
だからさあ、最後の最後もおカネは残してね。
って言われてもですね。
「もうお前たちは、勝手にやれ!」
ってなるし、
日頃お世話をしてくれる人がいるなら恩返しをしたいと思うのは自然。
「実の娘を差し置いて家政婦に遺産を渡そうとするとは考えられない」
っていう気持ちになるのも理解できますが、
実の娘の効力なんて、そんなに強くないんですよ、きっと。
まだまだ親の援助が必要な状況であったり、
いつまでも可愛がりたい状況であるならですよ。
「最後にお金残してあげるか」
ってなる。
でも、そうじゃなかったら。
血の繋がりがどうあれ、最後の最後の意思表示ぐらい、自分の好きなようにしたいな。
もしももしもですよ。
遺言書が母親の真意から作られているのは薄々知っていて、それを自分たちが続けていた無心から目をそらすために遺言の無効を主張していたとしたら。
それって、お母さんが最後に行使した自己決定権まで否定しようとしているわけです。
「失いたくない現在の生活」と「お母さんの意思」とをトレードしていることになる。
そもそも。
お母さんがいなければ、娘はこの世に存在さえしていないわけですから。
その一点において、もう絶対に感謝すべき存在であるわけで。
よほど酷いことをされたといった特別な事情がない限り、否定する動きをすることはしてはいけないと思う。