こんにちは。
岩渕悦太郎の「悪文 第三版」を読んでいます。
第一版が1960年発行、最新の第三版でも1995年発行なので、もうかなり古い本。
表現はちょっと古臭かったりしますが、読んでて面白いのでたまに引っ張りだしてパラ見することがあるんです。
「文の筋を通す」という章の中に、「副詞のおさめかたが悪い」という項があります。
副詞には決まった収め方があると。
「決して」、とあれば下には必ず打ち消しがなければならない。
「決して悪いことをするんだぞ」と言うことはない。
文章を書いていたり、ひとの話し言葉を聴いていたりするときに、「何となく気持ち悪い」って感じることありませんか?
「ら抜き言葉」とか、そういったとき。
何か足りない、何か違う、っていう感覚をですね、岩渕悦太郎先生からすると、なるほど!こう言うんだ!って思ったわけです。
すなわち、「決して」とあったら、何か否定的なもの、禁止的なものがあとにくるな、ということが受け手に予告され、受け手もその心がまえをする。
ところが、それが通則と違うと、受け手に心理的ショックを与えることになる。つまり、コミュニケーションの一種の障害を起こす。
何か違うっていう感覚は、心理的ショックを受けたことによるコミュニケーション障害だったんですね。
まあ、こう書くと仰々しいですが。
「とても」については、後ろに否定語がこなくても「何か違う」って感じないのは、使われはじめた年代に関係があるみたいです。
教育出版社のWEBサイト『Q08 「とてもいい」という言い方は正しいか』
東京語としては,明治のころには,「とてもできない」のように,打ち消しの表現を伴う用法だけであった。大正・昭和に入ると,「とてもきれいだ」のように使われるようになり,今日,話し言葉では,ごく普通に使われる。
大正昭和から使われだしたということは、僕らが子供の頃から「とてもきれいだ」は普通になっていたんですね。
だから違和感がなかったのか!
『悪文』は、古い本ですが、今でも現役で書店に並んでいます。
私がよく行く書店では、司法試験の資格本コーナーにラインナップされていました。
論文の試験対策として手にとった受験生がそのまま棚に戻してしまったのか。
「悪文のチャンピオンとして」として判決文が挙げられている章がありますので、未来の法曹たちに「こんな悪文は書かないでね」っていう書店の担当者の心遣いかもしれません。